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感謝!!

2006年09月30日
皆様、ご無沙汰しています
いろいろご心配をおかけしました。
この間に遊びに来てくださった方、励ましのコメントを下さった方、
本当にありがとうございました。
皆様のお陰で、私だけでなく、母もとても元気づけられたようです。
またこれから、少しづつ更新して行こうと思っていますので
どうぞよろしくお願い致しますm(_ _)m

さて――

確か7月中旬頃?に応募していた、
エビスビールの懸賞に見事、当選(!)しました。
(応募した事、すっかり忘れてた・・・

P9280015.jpg

『エビス限定醸造 むかし恵比壽』 350ml缶×6缶入り
P9280019.jpg
明治23年発売当時の味を再現した限定品だそうです。

今夏、義母から大量に頂いたエビスビール。
付いていた懸賞シールを台紙にせこせこ貼り、
一応・・・・送ってみたら
なんと、珍しく当たったようです^^; 
(オット、大喜び♪ お義母さん、有難うございました!)
味の方は、特に昔だからと言っても、
変わりな~く、普通に美味しい、との事でした。

・・・・残念ながら、飲めない私にはわかりませんの(;´д` )

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父の話。

2006年09月02日
皆様、ご無沙汰しております。
実は8月8日、父が亡くなりました。
享年68歳、あまりにも突然のことでした。

7月30日晴れ。
自治会の役員をしていた父は、
朝から前日の地区の盆踊り大会の後片付けに出かけました。
そこで急にしんどくなり、一時間もしない内に
帰らせてもらったそうです。
しかし、自宅まであと1分位のところで我慢できなくなり、
知り合いのご近所の家に助けを求めました。
連絡を受けた母も、そのお宅へすぐにかけつけました。
その時点では、父はかなりしんどそうではあるものの、
トイレを借りるのも自分で歩くなど、意識はしっかりしていました。
ただ嘔吐をしたり、いつも元気な父とは明らかに違うので
そのお宅から救急車で病院へ運ばれました。
その病院は普段から母もお世話になっている、
その辺りでは一番大きな病院です。

到着と同時に入口には数人の医師やスタッフたちが待ち構えていて
すぐに父は治療室へ運ばれました。
処置を始めるも、父は何度か部屋を移動させられ、
医師や看護士達が異常にバタバタしています。
そうこうしているうちに、
一人の医師が母に近づいてきて、こう告げました。
「非常に危険な状態です。近くにお住まいの家族は呼んで下さい。」と・・・。
母も何の事だか、わからなかったそうです。

『急性心筋梗塞・・・?』

保険証と財布だけ持って救急車に乗り込んだ母。
たまたま財布に私の家の電話番号のメモが入っていたらしく
公衆電話から電話がかかってきました。

私だってあんなに元気だった父が
“心筋梗塞”なんかで倒れるなんて考えられないし、その上、危篤!?
全く母の冗談にしか聞こえませんでした。
戸惑いながらも、とにかく出かける準備をしていると
その10分後ぐらいに、
次はその病院の医師の携帯から同様の電話があり、
大至急、タクシーで自宅の神戸から大阪へ向かう事にしました。
その間に兄、弟にも連絡をし、
私は約1時間程で病院へ到着しました。

母が待合のテーブル席に一人居るのが見えました。
近づくまでどきどきしました・・・
間近で母の顔を見て、とりあえずはホッとしました。

しばらくして兄一家、叔母が到着。
ようやく担当医らしき人から病状説明が始まる頃、
休日出勤していた夫も駆けつけてくれました。

まず個室に通され、冊子二冊と
治療(手術)経過の画像写真が渡されました。
渡された資料、モニターに映し出される動画を見ながら
状況説明を受けました。

約30分の説明が終わりました。

父は稀に見る、かなり重症の急性心筋梗塞で、
心臓の冠動脈三本の内、二本の根元が詰まっていたという事でした。
最善の処置をし、なんとか一命は取り留めたけれど、
復帰はおろか、この先の生存率はかなり低く、
いつ何が起こってもおかしくない状態と言われました。

同じ心筋梗塞でも軽度であれば
また元気に復活できる事も多々あるそうなのですが
残念な事に父の場合、詰まった場所があまりに最悪でした。

この後、初めて父のいるICUへ案内されたのですが
入院などした事の無い父がどんな状態なのか
正直、見るのは不安でした。

部屋に入ると、
父の体には無数の管が取り付けられていて
ベッドの周りにはモニタ-や機材などが数台置いてありました。
その中には父の心臓の代わりの人工心肺装置もありました。
もちろん父の意識はありません。

とても可愛そうな姿でした。

ショック症状で度々急に目が開いたり、
足がビクッと動いたりするのがとても痛々しく、
見てるのが本当につらかったです。

その日の夕方には遠方から戻った弟とも合流しました。

そして危篤状態が2,3日続いた頃
少し脈を自分で打ち始めたので、
人口心肺装置を取り外してみることになりました。
ところが、取り外す予定だった前夜の具合があまり良くなく
結局、予定日に取り外せませんでした。

人工心肺装置はそれ以降、取り替えるのが精一杯で
それを境に、血圧は下がり、昇圧剤を使うも、
いろんな臓器への合併症から顔や手には黄疸も出始めました。

8月7日朝。
病院へ行くと鹿児島から91歳になる祖母(父の母)、叔父が
到着していました。ICUのガラス越しに見えた祖母は
変わり果てた自分の息子の姿を見て、号泣していました。

この日、主治医からは昇圧剤も効かなくなり
前夜も数回電気ショックを与えるなど、
状態はとても悪いと聞かされます。

8月8日朝、
主治医から実家へ初めて電話がありました。
父に何かあれば連絡があるはずの電話。
非常に危険な状態の為、来て欲しい、という事でした。
私達夫婦も実家へ向かう電車の中、
実家にいた弟からその連絡を受けました。
急遽、行き先を病院へ変更しました。

病院に到着すると、
兄から主治医にとうとう決断を迫られたと聞かされます。
父の血圧がどんどん下がってきていて、
この先、この治療を続けるか、ということ。
まず、これ以上同量(通常の数十倍)の薬の投与を続けても
今以上の浮腫みで見た目が変わるうえ、
すでに敗血症、多臓器不全も合併していて、
おそらく無理な延命をするだけだという事。

もう1つの選択肢は
薬を通常の量に戻し、父の自然の生命力に任せる事。
ただそうすれば、おそらく
あとわずか3~4時間の命だろうと告げられました。

私達も父の様子から
近々この決断を迫られるのだろうとは思っていました。
兄が言うには、
これを母に選択させるのはあまりに酷すぎる、
私達兄弟で決断し、その後母に了解を得よう、と
私も弟もそれに同意しました。
とても辛い選択でしたが、私達は後者を選び
父の持つ生命力に任せる事にしました。

そして母は了解し、兄は主治医にそれを伝えました。

それから3時間が経つ頃、父の血圧は急激に下がり始め、
脈拍、心拍数もどんどん落ち始めます。
ついに、モニターのアラームも
繰り返し鳴り始めました。

そしてほぼ4時間後――
父はこの世を去りました。

病院に運ばれてから10日。
8月8日午後9時35分でした。

私が元気な父と最後に会ったのは6月。
京都の友人に会う為、実家に一泊したのが最後でした。
口うるさいタイプの父がちょっと苦手だった私でしたが
その時は近況報告など少し話したのを覚えています。
いつもと何ら変わらなかったのに。

心筋梗塞は高血圧や糖尿病の人に多いそうです。
父の血糖値が少し高めだという事は聞いていました。
でもそれなりに運動はしていて、
食事にも気をつけているようだったので
さほど気にしていませんでした。
しかし、ずっと高血圧だった事は今回初めて知りました。
昔から自分の健康管理は人一倍しっかりしていた、父。
でも言い出したら聞かない頑固者で
病院でもらった血圧の薬は、いくら母が勧めても
飲むと体がしんどくなるからと、
ほとんど飲んでいなかったそうです。
今更ですが、どうしてもっと真剣に
治療に取り組んでくれなかったのか、残念でなりません。


今頃はあちらで
趣味だった社交ダンスやカラオケを楽しんでいるのでしょうか。
昨年11月に他界したちょま(実家猫)とも会えたかな・・・

仕事を引退した後はそんな趣味以外に、
市の民生委員や老人会などで、人の世話ばかりして――
他にも、近くの池に突然住みついた白鳥の保護に乗り出し、
新聞の記事になった事もあったね。
そして結局、倒れたのもそんな自治会の仕事中で・・・。
そんな事もあってか、通夜・告別式には
色んな方面から予想以上のたくさんの方々に来て頂き、
父の付き合いの広さを初めて知りました。


そして、今、私は殆ど実家で
その後の手続きなど、母の手伝いをしています。
元気を無くしている母が少しでも早く復活できるよう
今しばらく力になろうと思っています。
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